学園都市キヴォトスはなぜ学園都市なのか ──ソーシャルゲーム空間論【未完】

この文章は丁度1年半前の時期に書き、完成させることの出来なかった論考となった。当初「ブルーアーカイブに登場する学園都市キヴォトスはなぜ学園都市なのか」「フィクションにおける学園都市」「ソーシャルゲームの空間」という3つのテーマを取り扱うつもりだったが、上手く結び付けることが出来なかったり、話が飛躍してしまい完成させようという気も薄れてしまった。ただ、それでもテーマ自体は面白い物であると思うし、今後の自分の為にも未完とはいえ、公開しておく。

あくまでメモ的な文章、あるいは殴り書きのようにも感じてしまうだろうが、どうにかここに書き記すことだけでも受け入れて貰いたい。特に書きかけなのは4章であり、あくまで、おまけ程度として読んでほしい。本当なら、もう2章かそれ以上を書くつもりだったが、結論部分はやはり書けなかった。また、3章部分の後半の記述についても些か信憑性のある理論に欠けている。

本文でほとんど書かれることはないが、要するにこの論考の趣旨としては『ブルーアーカイブ』の学園都市であるキヴォトスは「フィクションの学園都市と、現実における学園都市が抱えていたそれぞれの問題を巧妙に虚構世界に取り入れている」という事が言いたかった。それに加えて、『ブルーアーカイブ』の虚構世界にまつわる考察は、まだ余地があるだろう。「ソーシャルゲーム空間論」についてはほとんど書けなかったため、機会がある時に別の記事として書くかもしれない。

1. フィクションにおける学園都市

フィクション(特に本邦に代表されるもの)において長らく「学園都市」とは、外的な圧力、または重大な要因によって特異的な存在(ないし主要キャラクターたち)を幽閉、もしくは隔離の為に機能する「街」として描かれてきた。『とある』シリーズの学園都市が最たる例で、『9-nine-』シリーズも大筋として似た要素を孕んでいる。それらに限定される形ではなくても、史を見てもフィクションにおける学園都市とは、話の枷として配置されることの多い舞台装置であった。

このような学園都市の扱いは、国内の作品に多い。海外の数あるメディア作品の中で学園都市が登場する作品に絞るとしても、国内作品のようなあからさまで、はっきりと、高等学校のそれが拡張されたようなものは数を潜める。たとえば『ハリー・ポッターシリーズ』のように仮に巨大な学園の寮内に住むとしても、そこは結局はアカデミアを学ぶ場所に過ぎないし、すると学園に付属している都市は、アカデミアを中心とする街として描かれ、つまるところおおよそ、アカデミズムに帰属する。大雑把に言うならば海外の作品などの例で、「学園」を拡張してまで「学園都市」を描き切るというのはアカデミズムが根底にあるからであって、そこまで「青春」を強調する意味合いはない。一方国内作品の「学園都市」は学校生活の部分に意味を強く持たせている場合が多い。
これは国外からは批評の対象ともなる。日本のフィクション作品の作品群に登場する学園都市は、例えば韓国のnamuwikiによると、「教育機関を中心に発展した都市ではなく、ただ無作為に大きいひとつのマンモス校」「中等初等教育が主流の教育都市のその予算は一体どこから出てくるのか」「バブル期が終わった現在の日本において現実味はないが、物語作りは楽になる」と制作論的な言説を用いるに至られるほど、嘲笑めいて評されている。

(これらの文章には韓国カルチャーの側からの日本におけるバブルとその崩壊の部分に局所的にスポットが当たっており、韓国から見た日本のバブル景気に対する所感のようなものを感じ取れるが、本稿においては追求しない。)

2. 『ブルーアーカイブ』の学園都市

2021年にリリースされたスマホゲームである『ブルーアーカイブ』は、プレイヤー(先生と呼ばれる)以外のキャラクターであるところの「生徒」たちの頭上に「ヘイロー」と呼ばれる光輪が浮かんでおり、その全てが人間的ではない超人的な身体能力を有しているため、学園都市の登場するフィクションでよくあるような「エスパーもの」や「異能力系」といったカテゴリに通常分類される事はない。フィクション的な世界において、ブルーアーカイブでは「学園都市キヴォトス」で世界がすべて完結している。キヴォトス以外の都市との交流の描写はなく、そもそも他の都市が存在している事すらも示されることはない。また、「キヴォトス人」以外の人種の存在が通常仄めかされることはない。その点でいえばフィクションにおける典型的な学園都市とはならず、単なる都市群が舞台で(そこで全てが完結している)虚構の世界、という以外の意味は持たない。

「異能力系」で描かれるような「能力を持たない者」はブルーアーカイブにおいて犬やロボットといった市民として描かれているものの、それらが「生徒」たちの能力を特段特殊なものとして扱っているという訳ではないし、能力にたいして何か表明するといった事も行われない。「学園都市キヴォトス」で虚構世界が完結していると考えると、キャラクターたちはその能力を(たいして)特異だと認識していないのだろうか。しかし生徒たちがキヴォトスの「外」を明確に認識している描写が確認できる。(また、「外の人間」に対する詳細な知識がある)

これは学園都市キヴォトスが完全に孤立した世界ではない事の説明だろう。
ストーリーでは「外」から来た外敵であるゲマトリアが、生徒たちの存在あるいは能力を「神秘」と説明する描写がある。
こうした要素からは、ブルーアーカイブの世界(≒学園都市キヴォトス)はポスト・アポカリプスのような状況に置かれているのではないかとファンダムにおいて、推測される事がある。
『ブルーアーカイブ』のテーマはおそらく、「内部と外部」である。これは例えば「学園都市キヴォトス」と明かされない「世界の外」にあてはめることができる。他に「日常の中の非日常」という要素であったり、明確に描かれる「大人と子供」というテーマも含まれているだろう。たとえば、現実においても子供が初めに触れる「外部」は大人だろう。ブルーアーカイブでは「大人」をキヴォトスの外部から来た人間である「先生」として、「子供」は閉じた世界であるキヴォトスにおいての「生徒」と描写している。
ストーリーは学園都市キヴォトスに、プレイヤー(主人公)がドロップされる所から始まる。プレイアブルキャラクターである「先生」は外部の人間と強調されて登場する。外部から来た「見たことのない」大人に「子供」は興味を示していく。生徒たちキャラクターが初期から、自然とプレイヤーに興味を示しているのにも、ある程度の整合性が保たれている。
「学園都市キヴォトス」は"数千"の学園が集まった超巨大学園都市と説明される。その一つ一つが自治区を擁している。その規模は、生徒の一人である砂狼シロコ(ライディング)の絆ストーリーによると、キヴォトス縦断に必要な距離は4000kmという多少の言及がなされる。(距離的な物かは不明だが、横断に至ってはそれ以上に難しいと同ストーリーで言及されている)
その簡単な裏付けとして、キヴォトスには空港があり、天気予報の描写からも緯度に開きがある事が推測できる。
最初に話した通り、学園都市キヴォトスがただの拠点都市として機能している描写はなく、大陸規模であるだろう都市群は単純に国家として機能している面がある。
そして、「内部と外部」を強調する『ブルーアーカイブ』において、学園都市とはどのような意味を持つのだろうか。それを明らかにする前に、現実における学園都市の流れを整理しよう。

3. 現実における学園都市

関東大震災以後盛んになった郊外開発の動きのひとつに、小原国芳が築き上げた玉川学園都市が挙げられる。小原は提唱する「夢の学校」の実現に向かい「学生生徒も教師研究者も父兄も、思想的共鳴者もつどい住む教育的理想郷を造ろうとした」とされる。小原は関東大震災をきっかけに、1925年に成城学園の郊外移転を考えのもと移転計画を成功させる。その成功をベースに玉川学園の設置や住宅地開発に向かうこととなる。
1929年に南多摩郡町田町周辺の30万坪を買収し玉川学園の設立を行い、「教師が経営する田園都市」「高原の学園都市」と銘打ち分譲を始めたのもこの頃である。玉川学園都市の成功には理想的な郊外住宅地に対する期待が根底にあり、そこで学園都市人気が形成されていったといえるだろう。
郊外開発の流れを汲む、世田谷区成城や玉川学園といったものは「学園町」に近いといった見方をされる事が多い。日本の代表的な学園都市と言えば20世紀後半以降の人工的に発展した学園都市、その中でも筑波研究学園都市、関西文化学術研究都市、九州北部の研究学園都市建設の過去の構想などが知られている。研究学園都市というのは研究機関と高等教育機関が立地する都市の総称であり、また学術都市とも呼ばれる。
冷戦下の60年代や70年代において、首都機能の移転というのは重大なテーマだった。政府は1963年に立地を筑波山の麓・稲敷台地に定め、1980年には国の研究機関や施設の移転が済み、大学の新設や都市整備もこの時期に行われた。筑波研究学園都市は研究学園都市としてだけでなく、東京の過密緩和をも目的とされた構想ではあったが、周辺地区を含めても計画人口は35万人ほどであり、当時の東京の人口1000万人に比べるとささいな数ではあった。国家政策としては、官庁移転に重点が置かれていたものだった。

学園都市とは郊外開発の流れを汲む学園都市、都市計画により建設された学術都市、大学や施設を街の発展に取り組む都市、あるいは自然に発展したのち学園都市と呼ばれたものなどに分かれるが、フィクションにおいての学園都市では教育機関を中心に都市機能が発展した物は少なく、都市計画により建設されたものが多い。教育機関自体が力を持っている都市自体や、まるで国家形態のようなものまで存在する。

フィクションにおいて学園都市とは、ディストピアの流れを汲むものが多い。中には、学園都市にポスト・アポカリプス的な意が内包されているのものもある。例えば異能力系における学園都市においても、「能力」自体が疎まれたり、秘匿される事で、「異能」自体がポスト・アポカリプスに近い文脈(近いもので感染やゾンビ)を持つし、「学園都市」はポスト・アポカリプスにおける孤立した世界(≒見放された土地)としてまた描かれる。

なぜそこで学園都市なのかと言えば、学園を閉鎖的な場所として描くのに、学園を都市として拡張させる必要があると考える視点に基づく。フィクションにおける学園都市が、学園をただ拡張しただけの場所と評されたり、都市というより国家として描かれるのはこれに起因する。しかしそれだけでなくて、フィクションにおいての学園都市は現実における学園都市が抱える問題とも合流する。

計画都市としての学園都市もまた閉鎖的環境の問題を抱えていた。かつての筑波研究学園都市では、研究者の自殺が頻発する現象のことが「筑波病」と呼ばれていた。当時の筑波研究学園都市では研究者の自殺率が最多であり、また当時の日本人の自殺率の平均値にしても2倍を超えていたという。交通の不便さ、住居と職場の往復の単調さ、計画都市の無機質な都市構造といった原因が挙げられている。
実際に都心から離れた位置に建設された筑波研究学園都市は、交通の不便さという問題を抱えていたし、それもつくばエクスプレス開通で各々に心の余裕ができたとされる。
「筑波大生の多くは大学に張り付いて生活しているので、交友関係で行き詰ると逃げ場所がなかった」という声からしても、研究学園都市における大学や研究施設がいかに閉鎖的な場所であったかが分かる。
「学園都市」の問題としては、学校施設の閉鎖的環境、ないし共同作業における閉鎖感の延長上に、都市としての孤立があるのではないだろうか。
実際のところ現実の学園都市がディストピア的な要素を孕んでいたことはソ連などの「閉鎖都市」に見ても否定できない物ではあるだろう。

ただ一方、ゼロから産まれた都市が独自に形成する文化に、相応の価値があったと考える論考も存在する。初期の筑波研究学園都市において、もはやそれは開拓のような行為であったし、「ポスト・アポカリプス的な復興」とは言えないだろう。そして研究者の子ども同士による交流などに見ても「閉鎖的環境による発展」があったのには違いないのだ。

フィクションにおいての学園都市とは、「開拓」の要素が省略されることが多い。それはつまり、都市の「発展」が描写されにくいということで、それによりディストピア的な要素は強まるし、ポストアポカリプス的な設定と容易に結び付けることも可能となってしまう。

4. ソーシャルゲームと空間

ポストアポカリプスと時折紐付けられることのある概念の一つにリミナルスペースがある。ここではリミナルスペースの詳細な説明は省くが、ポストアポカリプスの文脈とリミナルスペースの双方で語られるものに、たとえばノベルADVゲームの背景が挙げられる。

『ブルーアーカイブ』の背景画像
人影は描かれず、自動車といった乗り物もほぼ描写されない

空間を説明する為のものである背景は、主要キャラクターの立ち絵が描かれていない場合、キャラクターが不在であることの説明としての一枚絵になる。これを「人が不在の日常空間」と捉えることで、多少リミナルスペースの文脈で語られる事がある。

「人が不在の日常空間」はブルーアーカイブでも見る事が出来る。超巨大学園都市であるのに人影の書き込みが全くないのは、ノベルADVゲームの背景の特徴っぽさもありながら、やや強引ではあるが、ポストアポカリプス的な一つの装飾にも足り得るように思える。

そもそも、ソーシャルゲームにおいて空間の説明はどのように行われてきたのだろうか。いくつか著名なソーシャルゲームの背景画をピックしてみる。

『拡散性ミリオンアーサー』のキャメロット城

『拡散性ミリオンアーサー』では侵攻されるキャメロット都市群が舞台である。拠点の背景は3DCGによって書き込まれている。またこの作品はアニメ化がされており、アニメにて描かれる背景は、ゲーム内の背景を忠実に再現している。ソーシャルゲームの背景を忠実にアニメで再現したというのは、それが世界観を示すものであるとしても、ゲームの背景画によって大きく左右された虚構な空間であり、ゲームの世界の「移転」ということに他ならない。

『消滅都市』のプレイ画像

『消滅都市』が着手したのはまず世界観の構築であり、もともと王道RPGものを企画していたプロデューサーは「世界観の説明の長さ」から開発を断念する。着目したのが自動横スクロールのARPGであり、世界観をプレイヤーに読ませるに至って、自動横スクロールのアクションゲームは爽快でわかりやすい説明であったことがインタビュー記事で明らかにされている。ソーシャルゲームの背景画において、自動横スクロールのARPGとは、ストレスなく世界観の説明が出来るという画期的な物であった。

一見するとゲームの背景は単なる背景美術のようにも思えるが、ゲームの虚構世界において重要な役割を果たしているのは間違いない。

この項では、本来フィクションの虚構世界とソーシャルゲームの背景画を交えて「ソーシャルゲームの空間」を説明する予定であった。

最後におまけとして、ソーシャルゲームの背景画に対する所感を少しだけ書いておく。

ソーシャルゲームの背景および背景作家は、 アニメの背景美術と比べると、いささか脚光を浴びていなかったのではないかと考えている。それは外部委託が多かったという実情もあるだろう。ただ、YostarあるいはNEXONのようにプロジェクトの規模が大きかったり、スタジオの環境が整備されている場所では、脚光を浴びることもあるのではないだろうか。見過ごされがちなソーシャルゲームの背景の現在と未来、そして「背景画」自体は、この先どのような方向に向かっていくだろうか。